大判例

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最高裁判所大法廷 昭和38年(あ)233号 判決 1965年4月28日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

被告人松山熊造本人の上告趣意(二通)は、事実誤認、単なる法令違反の主張であって、上告適法の理由に当らない。(本件において追徴を命ぜられた京都市農業協同組合太秦支部につき、法人格こそ有しないが、独立の会計を有していることなどにより、独立の団体としての実質を具えているとして、刑法一九七条の二および同一九七条の五にいう第三者にあたるとした原判決の判断は正当と認められる。)

被告人松山熊造、同海老名清一、同高橋はる、同太田安次郎、同西田喜三郎、同芦田栄三郎の弁護人三木今二の上告趣意第一点および第二点は、判例違反をいう点もあるが、引用の判例はいずれも本件と事案を異にして適切でなく、その余は事実誤認、単なる法令違反の主張に帰し、すべて上告適法の理由に当らない。同第三点中、憲法二九条、三一条違反および判例違反をいう点について。

本件において京都市農業協同組合太秦支部は被告人以外の第三者ではあるが、その代表者である被告人松山熊造が公判手続を通じ本件犯罪事実につき弁解、防御の機会を与えられていたことは記録上明らかであるから、同組合支部も、結局これに対する本件追徴につき実質上弁解、防御の機会が与えられていたものと認められる。それ故、同組合支部に、これに対する本件追徴につき弁解、防御の機会が与えられなかったことを理由とする右違憲、判例違反の主張は採るをえない(昭和三七年(あ)第一八六六号同三九年七月一日大法廷判決、刑集一八巻六号三二三頁参照)。

同第三点中その余の部分は単なる法令違反の主張であって、上告適法の理由に当らない。

被告人岡本常夫の弁護人前堀政幸の上告趣意第一点および第二点は、判例違反をいう点もあるが、引用の判例はいずれも本件と事案を異にして適切でなく、その余は事実誤認、単なる訴訟法違反の主張であって、すべて上告適法の理由に当らない。

同第三点中判例違反をいう点は、前記弁護人三木今二の上告趣意第三点中判例違反をいう部分と同じく採るをえないものであり、その余は単なる法令違反の主張であって、上告適法の理由に当らない。

また記録を調べても刑訴法四一一条を適用すべきものとは認められない。

よって、同四〇八条により主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官奥野健一の補足意見、裁判官山田作之助、同横田正俊、同松田二郎、同岩田誠の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官奥野健一の補足意見は次のとおりである。

刑法一九七条の二および一九七条の五にいわゆる第三者供賄罪に関して、没収又は追徴を命ぜられる第三者とは、必ずしも自然人に限られず、法人は固より、法人格を有しない団体であっても、代表者の定めある独立の団体として、財産を保有し得るものであれば足り、その団体が犯罪能力又は刑訴法上当事者能力を有するか否かは問うところではない。

右没収又は追徴は賄賂をその収受した第三者の手に残さないために、現に賄賂が残存するならばこれを没収し、若し残存しないならば、これを金円に見積り、その金額を追徴するのであるから、財産を保有し得る独立の団体であれば、たとえ、その団体が法人格を有しなくても、第三者としての被没収、被追徴の適格を有するものと解すべきである。若し、右第三者が法人格を有することを要件とするならば、例えば、ある市の市長が偶々某政党の支部長を兼ねている場合に、その市長に対し、ある申請が出されたとき、その申請の許可に対するお礼として、その政党支部に寄附名義をもって、金員を供与せしめたような場合に、その賄賂の没収又は追徴ができないことになる。

没収又は追徴はその第三者自身に対する附加刑ではないから、その第三者に被可罰能力のあることを必要としない。また、その第三者は当該刑事事件の当事者ではないのであるから、刑訴法上の当事者能力を有することも必要ではない。そして、第三者たる団体に対し追徴を執行するには、その団体自身の財産を限度とし、その構成員個人の財産には及ばない。けだし、人格なき社団の財産は、法律上その構成員の合有乃至総有に属し、その債務についても構成員は団体の財産を限度とする有限責任を負うに止まるからである。従って、構成員たる個人は追徴を命ぜられるものではないのである。

本件において、京都市農協太秦支部は原判決の確定する事実関係の下では、法人格こそ有しないが、独立の団体としての実質を具えているものと認められるから、右刑法一九七条の二、同一九七条の五にいわゆる第三者に該当するものと解すべきである。

本件太秦支部に、賄賂の収受者たる第三者として、追徴を命ずるには、その代表者に対して弁解、防御の機会を与えることを要するのであるが、本件においては、その代表者である松山熊造は本件第三者供賄罪の被告人として取調を受けているのであるから、被代表者たる右太秦支部のためにも、代表者として弁解、防御の機会を実質的に与えられていたものであり、また、改めて右太秦支部に対して弁解、防御の機会を与えるとしても、結局代表者である右松山熊造にその機会を与える以外に方法はないのであるから、改めて形式上右太秦支部に対して、かかる弁解、防御の機会を与える必要がないものと解すべく、従ってこの点について、原判決及び第一審判決に憲法違反の廉はない。

裁判官山田作之助の反対意見は次のとおりである。

一、実体法上(刑法、関税法等において)刑罰権(処分権)が認められていても、(例えば第三者より追徴金等を徴収し得る旨の規定が設けられていても)それは、抽象的に処罰条件を具備することにより国家に刑罰権が発生しているというに止まり、これを具体的現実に実現するには、必ず刑事訴訟法(若しくはその附属の法令)の定めるところに従い、各人について具体的に刑罰権(処分権、追徴権)の存在することを確定せしめなくてはならないことは言う迄もない。このことは、憲法三一条が「法定の手続の保障」を規定し、三二条が「何人も裁判を受ける権利を奪われない」と定めている、これ等憲法上の要請から生ずる当然の帰結である。

二、そして、刑事訴訟法では、被告人に対して言い渡される判決の効力が直接被告人以外の第三者に及ぶと言うことは、認められていない。けだし近代的刑事手続にあっては、被告人の利益を保護するため、当事者訴訟の構造をとっており、わが刑事訴訟法も勿論当事者訴訟主義を採用しているのであるから、従って、被告人に対してなされる訴訟手続ならびに同人に対して言い渡される判決の効力が、直接訴訟の当事者となっていない第三者に及ぶべきものではないことは自明のことである。

このことは、当事者訴訟主義をとる訴訟法においては、民事、刑事を通じ確立している現時訴訟上の基礎原理の一つであるというべきである(昭和三〇年(あ)第二九六一号同三七年一一月二八日言渡大法廷判決、刑集一六巻一一号一五九三頁、ならびに昭和三六年(あ)第一五一〇号昭和四〇年四月二八日言渡大法廷判決における各わたくしの意見参照)。

三、原判決は、第一審判決が主文第四項において、「京都市農業協同組合太秦支部から金三十三万三百六十円を追徴する」と記載しているのをそのまま維持しているのであるが、右京都市農業協同組合太秦支部は、本件においては起訴されておらず、訴訟当事者となっていない第三者である。したがって、本件追徴を命じた第一審判決が訴訟当事者たる各被告人に言い渡されたとしても、第三者たる農協太秦支部には何等効力を及ぼすものでなく、その関係においては右追徴の部分は全く意味のないものであるから、かかる意味のないことを掲げている第一審判決およびこれを維持した原判決は、この部分について破棄を免れないものといわなくてはならない。なんとなれば、判決の主文は、判決中最も重要なる部分であるから、ここに法律上無意味な事項の記載があることは、許されないからである。

裁判官横田正俊の反対意見は次のとおりである。

私は、被告人松山熊造を被告人として審理しただけで、京都市農業協同組合太秦支部に対し追徴を命じた第一審判決を維持した原判決は、憲法二九条、三一条に違反するものであるから、右部分につき原判決は破棄を免れないものと思料する。その理由は、岩田誠裁判官の反対意見に示されたところと同一であるので、それを引用する。

裁判官松田二郎の反対意見は次のとおりである。

多数意見は京都市農業協同組合太秦支部を刑法一九七条の二および同一九七条の五にいう第三者にあたるものとし、これに追徴を命じた原判決の判断を正当とするのである。私はこの多数意見に対し、次の諸点よりして反対するものである。

(一)  思うに、多数意見が右太秦支部に対して追徴を命じ得るものとしたのは、右支部が「法人格こそ有しないが独立の団体としての実質を具えている」ということを前提としているのである。しかしながら、右支部を果して「独立の団体」と認め得るであろうか。これが先ず検討すべき根本的な疑問である。

この点について、原審は次のごとく判示している。曰く「京都市農協太秦支部は京都市農協の支部の一つであり、従って独立の法人格を有しないことを認め得るけれども、同支部は支部長、副支部長、会計係を置き、同支部の区域内の一二部落から評議員を選出し、京都市農協本部とは独立の会計を持って事業を営み、同支部の前身である農業会の時代に有していた財産は、一応京都市農協の所有名義となっているものの、事実上、同支部だけの決議でこれを処分することができ、同支部の負債は同支部において支払わねばならないこととなっていて、本件の寄附金も太秦支部の一般資金として一括して保管され、同支部の費用に一部支出されていることを認めることができるのである。そうしてみると、同支部は法人格こそ有しないが独立の団体として実質を具えていると認められる」と。もとより支部名義の団体であっても、それが単に支部たる名称を有するに止まり、法律的には本部とは別個の存在を有し独立の団体であることが稀有の事例としてあり得るが(最高裁判所昭和三五年(オ)第一〇二九号同三九年一〇月一五日判決の事例参照)、しかし、かかる場合には、その団体が組織上独立したものであることを認めるに足る判示を必要とする。ただ「独立の団体としての実質を具えている」というだけでは、説明にならないことはいうまでもない。しかるに、原判決の右判示によっては、太秦支部が京都市農業協同組合とは別個の存在を有するところの独立した団体であるとは認め難い。いうまでもなく農業協同組合は法人であるが、原判決の判示によれば、太秦支部はその名称の示すごとく「支部」であり、すなわち、法人格ある京都市農業協同組合の「一つの支部」であると認め得るに過ぎない。原判決は太秦支部の組織を説明するが、これを以て同支部が独立の団体たることを示すものと認め難い。その判示する組織は、「支部」としての組織を示すに止まるものと認められるからである。しかして、およそ団体の支部が「支部としての組織」を有することは当然である。しかるに、もし団体の支部が支部としての組織を有することに立脚して、その支部が独立の団体であるというならば、おそらく、団体の支部の多くのものは本部とは別個の存在であり、法人格のない独立の団体と認められるに至ろう(会社の支店についても同様のことが認められるに至ろう)。かかる見解の失当なことは、言うを俟たない。

しかるに、多数意見は、本件において追徴を命ぜられた太秦支部について、「法人格こそ有しないが、独立の会計を有していることなどにより、独立の団体としての実質を具えているとして、刑法一九七条の二および同一九七条の五にいう第三者にあたるとした原判決の判断は正当と認められる」という。これより見れば多数意見は、太秦支部が「独立の会計」を有していることを以て、同支部が独立の団体たることを示す重要点と考えるもののごとくである。私はここにいう「独立の会計」の意味を必ずしも明らかに把握し得ないが、企業に例をとってみれば、企業には本店、支店、工場、事業場等があって、各経営が分散している場合には、各経営がそれぞれ独立の会計単位を構成していることがあるが、しかし、そのことは決して各独立の会計単位が法律上において、それぞれ独立の団体であることを意味するものでないことはいうまでもない。現に農業協同組合法自体が会計主任を選任し、主たる事務所又は従たる事務所において、その業務を行わせることができる旨規定していることは(同法四二条)支部の会計が本部のそれとは別個に独立して取扱われ得ることを示しているものと解されるのである。しかし、そのことが支部が法律上、独立の団体であることを示すものでないことはいうまでもない。

叙上の見地に立つとき、太秦支部は正にその「支部」という名称の示すとおり、京都市農業協同組合という法人の「支部」に過ぎないものと認められる。従って、この「支部」に対して追徴を科した原判決は、憲法二九条一項に違反するものといわなければならない。けだし、京都市農業協同組合の財産を不当に侵害するものに外ならぬからである。されば、この支部を独立の団体であるとし、同支部に追徴を命じた原判決は違憲であり、この原判決を是認する多数意見は、私の到底賛し得ないところである。

(二)  次に右太秦支部が、仮に多数意見のいうごとく法人格のない独立の団体であるとしても、なおこれに追徴を命じ得ることについては、疑問なきを得ない。

もっとも、追徴は没収の換刑処分であって刑罰そのものではないにせよ(刑法九条参照)、追徴の有する財産刑的色彩を全面的に否定し去ることはできないであろう。そうであるならば、人格のない団体を処罰する旨の特別の規定がない本件の場合において、太秦支部を人格のない団体であると認めながら、これに対して追徴を命ずることは、法の許さないところであり(このことは民事訴訟法上においてすら、法人に非ざる社団は、特別の規定(民訴四六条)によって初めて、当事者能力が認められることと対比しても、明らかであるといえよう)、憲法三一条に違反するものというべきである。

(三)  しかも本件は、単に人格のない団体に追徴を命じ得るかという問題に関するだけでなく、もし太秦支部が人格のない団体であるならば、この太秦支部を刑法一九七条の五の第三者に該当するものとして、これに追徴を命ずるには、その代表者に対して弁解、防御の機会を与えることによって、太秦支部そのものに対して弁解、防御の機会を与えたものといい得るかの問題に関する。多数意見はそれを以て足ると主張する。しかし、私はかかる見解には、賛成し得ないのである。けだし、太秦支部を法人格ある団体、すなわち法人の場合と同様に律し得ないからである。

ここにおいて、人格のない団体とは何を意味するかということについて、一言する必要を覚える、思うに、いわゆる権利能力のない社団が人格のない団体のうちに含まれるのは当然であるが、組合もまた法人格を欠く人的結合であるから、このうちに含まれるものと解される。けだし、近時の学説は組合を以て単なる契約関係と見ないで、これを社団と竝ぶところの団体法的結合と解しているからである。今本件において、検討すべきことは、「太秦支部」が仮に人格を有しない独立の団体であるとしたとしても、それが権利能力のない社団であるか、あるいは組合であるかという問題であり、太秦支部がそのいずれに属するかによって判断を異にするに至るからである。

(1) まず、太秦支部が権利能力のない社団であるとしたならば、その財産といわれるものは各社員個人の財産より分離した別個の特別財産を構成し、この特別財産から追徴を命ぜられた額を支払うこととなる。しかし、この団体に権利能力がない以上、この特別財産なるものは、実質上は社員の総有に属するものに外ならない(社員に対する出資請求権もこの特別財産のうちに含まれるのである)。従って太秦支部に命ぜられた追徴は、実質上社員の支払うところなのである。そしてこの太秦支部という権利能力のない社団において、その社員がこの支部の債務について、出資額以上の責任を負担しないとしても、この支部の債務が実質上社員の債務であることには、何等の差異はない。けだし、この場合、社員は太秦支部の債務を自己の債務として負担しつつ、ただその責任が出資額に限定されるに過ぎないからである。すなわち、社員は真の意味の有限責任を負うのである(株主の有限責任といわれるもののように真の有限責任でないものと区別して考えることを要する)。従って、われわれは本件において太秦支部に対する追徴とは、その社員に対する追徴であることを知らなければならない。

思うに、第三者に対する追徴は、没収に代わる処分として直接に第三者に対し一定額の金員の納付を命ずるものである以上、当該第三者に対して告知せず、弁解、防御の機会を与えないで追徴を命ずることは、適正な法律手続によらないで、財産権を侵害する制裁を科するものであり、憲法二九条一項、三一条に違反するものといわなければならないのである。しからば、本件において、太秦支部を権利能力のない社団であるとして、これに対して追徴を命ずることは、所詮総社員に対して追徴を命ずることに外ならないから、追徴につき総社員に告知し、弁解、防御の機会を与えなければならない。もし、この手続を履まないで単にその代表者にのみ弁解、防御の機会を与えるに止まるときは、その追徴は、右憲法の条項に違反することとなるのである。

(2) もし太秦支部が独立の団体ではあるが、組合であるとしたならば、これに対する追徴については、構成員たる者すべてが直接にその債務を負担すべきこととなる(しかも権利能力のない社団の場合と異なり、その債務は出資額に限定されない)。従って、太秦支部に追徴を命ずるには、その構成員全部に対して弁解、防御の機会を与えなければならないことは明らかである。しかも、原判決の判示によれば太秦支部について果していかなる定款があるか、社員総会があるか、多数決原則が行なわれるなど、「社団」としての組織上有すべき本質的特徴について充分に判示するところがない。従って、原判決の判示により、もし太秦支部が独立の団体と認められるならば、それが権利能力のない社団ではなく、組合であると認められる余地が少なくない。そして、もし太秦支部が組合的結合であったならば、これに対し追徴を命ずるには、その代表者のみに告知し、弁解、防御の機会を与えるのみにて足りないことはいうまでもない。

もし代表者のみに告知し、弁解、防御を与えたに過ぎないときは、その追徴は前記憲法の法条に違反するものといわなければならないのである。

要するに、私は叙上の諸点よりして、多数意見に反対するものである。

(四)  なお仮に太秦支部が多数意見のいう如く追徴を受けるに足る独立の団体であるとしても、その代表者たる被告人松山熊造を被告人として審理しただけで、改めて右太秦支部に追徴について告知せず、弁解、防御の機会を与えることなく、これに追徴を命ずることは、憲法二九条一項、三一条に違反すると考える。その理由は、岩田裁判官の意見に示されたところと同一なので、これを引用する。

裁判官岩田誠の反対意見は次のとおりである。

私は、原判決の是認した第一審判決が京都市農業協同組合太秦支部に追徴を命じたことは失当であるとする松田裁判官の意見に同調するものである。

しかし仮に、右組合太秦支部が多数意見のいうが如く追徴の言渡を受けるに足る独立の団体としての実質を具えたものとしても、その代表者たる被告人松山熊造を被告人として公判審理をしただけで、改めて右組合太秦支部に追徴について告知し、弁解、防御の機会を与えることなく、これに追徴を命ずることは違憲であると思料する。

公務員がその職務に関し請託を受けて、第三者に賄賂を供与せしめたいわゆる第三者供賄罪について、刑法一九七条ノ五の規定により、その第三者たる自然人からその収受した賄賂を没収することができないとき没収に代わるものとしてその価額を追徴する場合に、当該第三者に対し、告知せず、弁解、防御の機会を与えないで追徴を命ずることは、適正な法律手続によらないで財産権を侵害するもので憲法二九条、三一条の規定に違反するものといわなければならないことは、昭和三六年(あ)第一五一〇号収賄被告事件についてした当裁判所大法廷判決(昭和四〇年四月二八日言渡)の判示するところである。

多数意見は、本件において賄賂を収受した第三者たる京都市農業協同組合太秦支部の代表者は、被告人松山熊造であり、同被告人が公判手続を通じ本件犯罪事実につき弁解、防御の機会を与えられたから、同組合支部も結局これに対する本件追徴につき実質上弁解、防御の機会が与えられたものと判示して、同組合支部は賄賂たるの情を知ってこれを収受した第三者であり、同組合支部に対する追徴は正当であるとした原判決を支持しているのである。しかし、前記大法廷判決は、賄賂を収受した自然人たる第三者が、第三者供賄罪を犯したとされる公務員に対する被告事件の公判手続において、単に証人として取調べられているに過ぎない場合に、右第三者に対し、告知の手続、及び弁解、防御の機会を与える手続を履むことなく、これに追徴を命ずることは、前記憲法の規定に違反すると判示しているのである。してみれば公務員がいわゆる第三者供賄の罪を犯し、その賄賂を収受した第三者が法人等の団体であり、偶々その公務員がその法人等の代表者であった場合に、その公務員が自己の刑事被告事件で公判審理を受けたことを以って、その第三者たる法人等が追徴について、実質上、弁解、防御の機会を与えられたものとすることは正当とはいえない。第三者たる法人等が追徴を命ぜられることは、その法人等にとり不利益な事柄であり、その代表者たる公務員が自己に対する公判手続で被告人として弁解、防御するところは、必ずしもその法人等の利益とは限らず(真実は公務員が自己に賄賂を収受するものであるのに、その法人等に、賄賂が寄贈された如く弁解することもあり得る)、右被告人としての弁解、防御を以って、直ちに、これを第三者たる法人等の為にした追徴についての弁解、防御であるとすることはできないからである。多数意見は、この点について昭和三七年(あ)第一八六六号同三九年七月一日言渡大法廷判決を引用するけれども、右判決は、株式会社の代表取締役らが関税逋脱物を有償取得する罪を犯し、その犯罪貨物が、自己が代表する会社の所有に帰し、右会社自体起訴されてはいないが、関税法違反の犯人に当る場合であり、かかる事案につき起訴された被告人らに対し、第三者たる会社所有の犯罪貨物の没収を言い渡したものである。然るに本件では、判示組合太秦支部は何ら犯罪を犯したものではなく、又同組合支部は起訴し得ないし、従って被告人でもないのに、主文においてこれに追徴を命じているのであって、右引用の大法廷判決の事件とは全く性質を異にするものである。従って右大法廷判決は本件に引用するに適しないものである。

以上考察するところによれば、本件においては、被告人松山熊造に対する公判審理手続のほかに、更に第三者たる前記組合太秦支部に対し、追徴につき告知し、弁解、防御の機会を与える手続を必要とするものといわなければならない。然るに右のような手続に関しては、刑訴法その他の法令になんら規定するところがなく、本件においても告知もなく、弁解、防御の機会も与えられていないのであるから、右組合太秦支部に対し追徴を命ずることは、前記憲法の各規定に違反するものである。

そして、第一審判決の京都市農業協同組合太秦支部に対する追徴は、被告人松山熊造に対する刑と共に言い渡されたものであるから、第一審判決中、同被告人に関する部分並びに右組合支部に追徴を命じた部分及び原判決中右第一審判決を維持した部分は、この点においても破棄を免れないものである。

(裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 奥野健一 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 横田正俊 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外 裁判官 柏原語六 裁判官 田中二郎 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田誠)

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